筥崎瓦版  VOL.2 No.3 Ser.9 2004年 2月27日 編集・発行 夢企画 〒812-0061 福岡市東区筥松2-3-17-202 e-mail: mail@yumekikaku.jp Phone.092-624-1316 FAX 092-624-1317 HomePage http://yumekikaku.jp/ ⇒( kawara/ ※PDF版・テキスト版) 不定期発行(15日〜1.5ヶ月の変則間隔で発行予定)配布場所によりB5〜A3選択 ◎水は大切に!  2月の初めくらいに、TV番組のお天気コーナーなどで「福岡地方は雨が少なく渇水傾向にある」ということを聞きまして、なぜか今回は渇水時の頼みの綱である井戸・・・しかもかなり懐かしい「手漕ぎ式の井戸ポンプ」を探してみました。僕が子供の頃に大渇水があり給水車が走り回っていたのをなんとなく覚えています。今回ご紹介の井戸がいつ掘られたのかは不明ですが、渇水騒動時にもやはり新たな井戸が掘られたりした様です。  ちなみに、今回探した範囲は箱崎と馬出の狭い範囲で、しかも路上から即確認出来たものだけを写真だけで紹介させていただいてます。真剣に探せばもっとあると思いますが、また新たに発見しましたら順次紹介していきたいと思います。一応区役所や保健所などで「井戸」の存在を把握しているかどうかを聞いてみたのですが、水質検査の依頼があった分以外には特に資料はないようでした。  この瓦版編集時点での福岡市のダムの貯水状況は平年よりも多少多い様で、このまま何の問題もなく今年も過ごせればなと思います。それから水関連の情報ですが、現在福岡市に関連したダムが2箇所と東区奈多に海水淡水化施設の建設が進んでいます。福岡市のホームページからは淡水化施設に関した情報を見つけることは出来ませんでしたが、濃縮された海水の放流口近辺の環境や淡水の生成コストなどについてかなり興味があります。 (※写真見てくださーい。見ました・・・?  撮り方がうまくないので、よく見えないかも知れませんが、ご了承くださいm(__)m  )  さて今回の手漕ぎの井戸ポンプはどうでしょうか?  僕は子供の頃に実際に使った・・・というか遊んだ経験があるのでけっこう懐かしく思えます。馬出2のポンプが、なんと歩道の真ん中にあり、ちょうどお店の前だったので一応井戸が生きているかどうかをお店の人に聞いてみると、「今年は使ってないけど昨年は出てました・・・」とのことでした。  井戸水の水質汚染や使いすぎによる地盤沈下などが時々問題になることがありますが、深い所から自然の恵みを手動で必要な分だけ取り出して使う・・・なんかいいですよね。ポンプ以前のしかも共用井戸があるところでは、「井戸端会議」の言葉通り地域の人の情報交換や交流の場であったんだなーと思うと、なんか手漕ぎのポンプにも愛着を覚えます。出来ればいつまでも残しておいてもらいたいなと思います。  今後これらのポンプが必要に迫られて使用されなければならない事態にならないように、水資源は大切に使いましょう。そういえば、子供の頃は、水を出しながら歯磨きをしてて何度となく父親に怒られてました(^^;; いつの時代も水は大切ですよねー、そして怒ってくれる人も必要だし。        CANOMATE ◎変わり雛に挑戦してみては?  先日、「筥崎瓦版」配布地域の紹介を目的とするサイト制作にご協力いただいたお店の写真撮りに行ってきました。その際に雛祭りに向けたものも飾ってありましたので、ここでちょっとだけご紹介。左の写真、人気のチワワ犬をモデルにしたものでしょうか。 お母さんの作品として、あるいは子供と一緒に、手作りの変わり雛に挑戦してみてはいかがですか? お店は「クラフトハート トーカイ福岡東店」(馬出3-3-23 Phone.092-642-7681) お店の紹介は・・・ http://yumekikaku.jp/hakozaki/でも案内しています。             (夢) ◎写真と物事 よく物や事柄を人生などの教訓として語られることがありますが、僕の好きな写真のことを物事のとらえ方の教訓にちょっと使って見たいと思います。  写真は「目前の事実を記録する」というものですが、その記録する範囲には限りがあります。  写真を撮ったことのある人なら必ず経験していると思いますがファインダーを覗いたり最近のデジタルカメラでは液晶部分を見ると写る範囲がわかる仕組みになっています。写真を撮る場合、通常はこの「範囲」にのみ注意を払いその周りの事は考えません。  さて何がいいたいかと言うと・・・別に写真という物に拘らなくてもいいのですが、ひとつの目前の事実であっても物事は見ている範囲や角度(自分の位置)、もっと言うなら見えていない部分の状況によっても様々な見え方をし、見ている人のとらえ方や感じ方を変えるということです。  肉眼で見る月や星も天体望遠鏡などで倍率を上げて見ていくとそれぞれに印象が違います。また嫌われ者の代表みたいなゴキブリもパーツを部分的に見たり顕微鏡で拡大したりしていくとまた印象が違います。汚れた山や川があっても月から見ればいつも綺麗な地球なのかも・・・綺麗な人も見ている部分や角度そして瞬間によって印象は大きく変わります。つまり人の好き嫌いやすべての物事のとえ方などは、見ている範囲や角度によって変わりその事を自分で把握している事が重要ではないかと思うのです。そしてもうひとつ大事なことは、見えている範囲だけが全てではないということも認識しておく事。  「あたりまえー」と言われそうですが、これがなかなか難しいことで・・・  凝った写真を撮る人は逆に見えない部分を想像をさせる事で印象付けたりしますが、これも人の魅力に相当するのかも(^^;;  いろんな物事を自分でとらえる時に、レンズを換えて広い範囲を見たり狭い範囲を見たり、またどこをどの様に見ているのかを認識して判断できる心の目と鍛錬が必要だなと思います。 ◎フィードバック フィードバック・・・簡単に言えば結果の情報を戻すということですが、人の体にも心にもそして社会にも大変重要な仕組みです。  この機能の良し悪しと返ってくる情報の質により以後の振舞いは大きく変わることになります。  例えをペットに絞ったとしましょう。犬がじゃれて人の手を咬んだりすることがあります。生後間もない頃は全力で咬まれても大した痛みもなく飼い主にとっては可愛い可愛いで済ませることが出来ますが、ある程度体が大きくなってくると力も強くなり咬まれると苦痛だったり出血したりということにもなります。  そのまま育った犬はじゃれる場合の力加減を知らずに凶暴な犬とされるかも知れません。  しかし子犬の頃の適当な時期に、痛みを感じるような咬みかたをした場合、少々胸は痛みますがその場で頭などを少々強く叩いて「その咬み方は痛いんだ!」という意思を返すと、徐々にあるいは即咬みかたを和らげてきます。この犬の行動に対する人の反応がひとつのフィードバックです。飼い主からすれば「しつけ」という言い方に変わるのかもしれません。逆に犬から怒られたりするような場合は、人の方がその意味を探り自らの行動を修正しなければなりません。  この犬が咬んだときの例で、もし飼い主が言葉だけで言い聞かせる様な行動を取ったら・・・おそらく犬はいつまでたっても理解できないでしょう。最終的には犬のストレスになり更に凶暴になるかも知れません。  これはペットだけのことではなく人の場合も同様です。もちろん「社会」という生き物についても。  ちなみに生き物にとっての最大のストレスは刺激がないことです。つまりなんの反応も刺激も得られないこと。  さて学校や地域や行政や自分自信はいいフィードバック機構を持ち、更に他の為にいい情報を返しているでしょうか? ◎子供はだれのもの?  表題のように「もの?」とするのはちょっと抵抗があるのですが便宜上こうさせていただきました。  でも最近は本当に「物」としかみてない様な感じも時々見えたり。  さて何かというと・・・最近また児童虐待のニュースをよく耳にするようになりましたが、みなさんはどう感じますか? 親・周りの人・学校・児童相談所・警察など、いろんな関係者が出てきます。  1997年の年末、あるきっかけで「福岡県立粕屋新光園(肢体不自由児施設)」というところに見学に行ったことがあります。僕自身、変な活動をやってたおかげで、身障者を取り巻く環境や生活状況などをある程度把握していましたし肢体不自由に至る原因についてもそこそこの知識がありました。 ・・・が、色々話を聞いてみると原因の一つに「親の虐待」によるものがあり、しかも近年増加傾向にあると言うのです。これにはびっくり・・・  見学に行った時はすでに多くの入園者が正月のために一時帰宅してましたが、やはり迎えに来ないところもあり、逆に帰りたくないという子供もいたりするそうで、なんか辛いなーと思ったことがあります。また当時この施設の様に専門的に医療と養育を行う場の存在を、関係のある公的機関の人でさえ知らずに本当に必要としている人たちに情報が行かないことも嘆いておられました。僕も同感だと思いました。それから、今でこそ「虐待」が事件として取り上げられ、行政機関の家庭への介入について議論されていますが、こういった施設などでは既にいろんな状況が見えていた訳です。なぜ行政はいろんな面での早期対応が出来ないのでしょうか?  ・・・と話を大きくそらしておいて、「だれのも?」ですが(^^;; 実際、だれのものでしょうか? あるいは子供はどこに所属してるんでしょうか? 子供はどこからも独立した存在なんでしょうか?  親のものであるとするなら、その子供の育成に関するすべての権限を与えある種の責任を科するべきです。しかし必要不必要の疑問を抱いてしまうような、国からのいろんな規制があったりします。では国のものだとするなら、果たして国はどこまで面倒を見てくれるんでしょうか? 親として不適格だと判断された場合、あるいは親を放棄した場合、子供はどういう形で育ててもらえるんでしょうか? 国の定める「親としての基準」にまで親を再教育したり、「仕方ないですねー」といって国が子供を引き取ったり里親を探したりしてくれるんでしょうか?(^^;;  最近では性教育というものも多少受けるようですが「親になる教育」というのは特には受けませんし、教育科目としてあることが良いか悪いかは考えてもどうしようもありません。  さて子供は・・・?  様々な影響を与えるのは親だけでもないし学校だけでもないし、当然のことですが社会全体が影響を与える場です。社会全体ということはすべての人が何がしかの影響力を持っていることになります。  さてさて、子供はだれのもので、誰が育てているんでしょうか?